サラダ油に火はつかない

あのーこれは私の友人のー、そうですね、仮にAさんとでもしておきましょうか。その人から聞いた話なんですけどね。

Aさん、仕事帰りに小田急の電車に乗ったんですけどね、座席に座ってウトウトー、ウトウトーってなっていたんです。そしたら急にキキキーって、電車が止まったんです。

駅に着いたわけでもなくて、窓の外も真っ暗で、「あれー? おかしいなあ。変だなー」ってAさんは思ったんですよ。

 

でね、Aさんは見ちゃったんです。えぇ。小田急線で刃物振り回してる人がいるってのを。

Twitterでね。

 

ゾワッと背筋が凍るような気持ちだったんですよ。同じ電車にいるかもしれない。

やだなー怖いなあーって思いながら、Aさんはキョロキョロ、キョロキョロしてね。隣の車両から殺人鬼が来やしないかとそれはもう不安で不安で。

 

そしたらね、ガチャンって、すっごい大きな音がしたんです。

 

電車が動き始めただけなんですけどね、えぇ。

 

Aさんはあまりに驚いてそれ以降のことはあんまり覚えてないらしいんですけどね、とりあえず無事に家に帰って、調べたら犯人も捕まってたそうなんですよ。

 

いやー電車で刃物振り回すなんて、怖い話もあるものですねぇ。

 

 

 

まあ茶番はこの辺にしておいて。私もちょうど電車に乗ってたからかなりビビった。小田急の場所と自分の位置を見て「まぁ大丈夫かな」って。同じような人がすぐ近くにいる可能性も0ではないのに。

Twitterではフェミサイドとかナンパ師とかいろんな言葉が飛び交ってたけど、タイトルの通り本題はサラダ油のお話。

 

 

それは事件翌日のことだった。友人が、

小田急の事件、サラダ油撒いて火をつけようとしてたらしいよ」

と話していた。それに対する私の反応は、

「うわー怖っ、未遂でよかったー」

という淡白極まりないものだった。

 

……お分かりいただけただろうか。

……もう一度ご覧いただこう。

 

小田急の事件、サラダ油撒いて火をつけようとしてたらしいよ」

「うわー怖っ、未遂でよかったー」

 

そう、当時の私は「サラダ油で火事が起こる」ことに全く疑念を抱かなかったのである。

 

ここで「キャーー」という無駄に甲高いSEが入る。ワイプに映った誰かが顔を手で覆いながら目線を逸らす。「こんな無知な人間がこの世に存在するなんて」と。

 

 

再び茶番を脇におこう。当方理系の学生だが、サラダ油が引火しないなど初めて知った。より正確に表現するならば、初めて認識した。

当然だが発火点と引火点の違いは理解している。そして「火に油を注ぐ」の意味も分かる。

 

ガソリンは、油。サラダ油も、油。

火、つきそうじゃん。

 

しかしよく考えたらそんなはずはない。サラダ油なんて料理でいつも使われているし、平然と火に晒されている。もしサラダ油が簡単に引火しようものなら毎日がボヤ騒ぎだ。だがそんなことはただの一度も起こったことがない。

ゆえに「サラダ油に火はつかない」と判断できる。

 ここに科学的知見に基づいた根拠などない。あるのは日常的経験に基づいた帰納的な着地だ。科学的見地から得られる事実を「知識」と呼ぶならば、日常生活から得られるそれは「知恵」と呼ぶのが適切だろう。「サラダ油に火はつかない」という発想はその意味で「知恵」なのである。

 

つまりサラダ油で火事になってしまうという誤解は「知恵不足」が原因である。もちろん引火しないのは科学的な根拠があるのだから「知識不足」であることも事実だが、そこはさして重要ではない。私たち全員が化学に、広く言えば学問に精通しているわけではないからだ。「知識」を持っていないのはある意味当然のことで、それを認めた上で物事を正しく理解するためには「知恵」が重要である。

 

しかしここで厄介なのが、「知恵」は「知識」よりも獲得が困難であるという点だ。

 

考えてみればこれは至極当然のことだ。「知識」の獲得に必要な科学的知見、少し範囲を広げて学問領域における情報、としても良いだろう。私たちがこれらの情報を取得する際には「学び、吸収する」ことを前提として立ち回っている。つまり「知識」の獲得までが一連の学びであり、意識無意識によらず私たちは比較的自然に「知識」を獲得しているのだ。一方「知恵」の獲得はそう簡単ではない。「知恵」根源たる情報は日常に転がっており、私たちはそれらを日々取得すれどもそこから学ぼうとする意識がないからだ。

 

参考になるかはわからないが「知恵」の獲得例として”ダイゴ”を挙げようと思う。最近の話をするつもりは全くない。

恥を晒すようだが実は私、メンタリストのDaiGoとシンガーソングライターのDAIGOを別人物として認識していなかった。説明が難しいのだが、同一人物と勘違いしていたわけでもない。両者の顔もちゃんと思い浮かぶ。

 

総理大臣の孫とか、松丸亮吾の兄とか、ノブとコンビ組んでるとか、メンタリストとか、ヴァンガードのCMやってるとか。

 

これら”ダイゴ”に関わる情報は複数持っている。DAIGOとDaiGoを区別できる人はこれらの情報という点を正しく整理分類し、線で結ぶことができている。一方で同一人物を勘違いした人は分類をせずに点を全て結んでしまっている。そして当の私はというと、これら複数の点を何もせず放置していたのである。

 

「知識」及び「知恵」の獲得とは、情報という複数の点を認知するだけでなく、それらを線で結び関連付け、全体像を把握することである。

つまり「DAIGOとDaiGoは別人物」は「知恵」であり、「DAIGOとDaiGoは同一人物」も(誤りではあるが)「知恵」である。そして点を点として放置するのは「知恵」にすら至らない「低次元の知」と言える。

 

ここでサラダ油に話を戻そう。

「サラダ油に火はつかない」を「知恵」とするならば、その根拠たる情報の最たるものは「火元にあるはずなのに火事になったことはない」であろう。

 サラダ油に関しては「低次元の知」で止まっていた人も少なくないと思われる。が、問題はその先である。「サラダ油(以下略)」という事実を初めて知った時、これを「知恵」と捉えるか一つの情報と捉えるかだ。

一見するとただの事実を述べただけの情報、すなわち点にすぎないのだが、これをただの点と捉えてしまうと「じゃあ灯油に火はつくのか」という問題を正しく評価できない。それどころか灯油すら俎上に乗り得ないのである。「サラダ油(以下略)」を情報としてと同時に「知恵」として取り入れることができれば、それは「知恵」の獲得過程を擬似的に経験することを意味する。さらに灯油やその他の油、身の回りに引火し得るものはないかなどと派生的に思考を巡らせることで新たな「知識・知恵」の獲得につながる。この連鎖的な「知識・知恵」の獲得こそが「高次元の知」の形成と言えるだろう。

 

雑にまとめるとこうだ。私たちは日々の生活の中で新しい情報を取得する。しかしそれを単に取り入れるのではなく、自身の持つ情報や「知識」、「知恵」と組み合わせることで新しい「知識・知恵」を獲得できる。この「高次元の知」こそが重要だ。

点と点を線でつなぐという行為は学習場面においてはよく意識されることであるが、日常において実践されることがあまりない。知の高度化のために日常場面での意識を変えることが必要である。

 

 

 

久々に真剣に言語化をした気がする。結論自体はありきたりだけど、こういうことはきちんと認識・再確認をするのも大切なんだよね。ほどよいオチも思いつかないので、今回はこの辺で。

 

 

全身麻酔して骨に穴を開けた話

仰々しいタイトルだが経緯を説明しよう。

卒論提出した、やったね! 今季スノボ行けてなくてつまんないんだよねーじゃあ今から行くかー。うひょースノボたのしー! あーでもこの辺雪硬くて怖いなぁ。うわ前の人転んだ! 躱せたけどこっちも無理だわ、転ぶー。痛ってー肩痛てー死にそう。でも内出血もしてないしただの打撲やろ。いやースノボ楽しかったなー。

病院にて。

「見ての通り骨折していますね。自然じゃ治らないので手術が要りますね。」

「え?」

「ここじゃ設備がないから大きい病院行きましょう。紹介状書くからちょっと待っていてくだい。」

「へ?」

鎖骨、折れてました。前回の骨折ほど痛くなかったから、骨は大丈夫だと思ってたんだけど、全然そんなことないらしい。肘より先は余裕で動かせるから尚更実感がない。ってか前骨折してから1年半しか経ってないぞ、怪我しすぎだな。それにしてもレントゲン写真は面白かった。本来1本のはずの鎖骨が2本になってた。なんかね、きゅうりを包丁で真っ二つにした感じ。ほんとほんと、スパーンっていってたの。思わず笑っちゃった。

 

翌日、紹介された病院へ向かった。朝一に来たのにすでに人が多い。コロナワクチンの会場にもなってるらしい。へー。

 

CTとかいうのを初めてとった。頭の上の方でよく分からない機械がぐるぐる回っていた。こういう時って呼吸の仕方分かんないんだよね、何も注意されなかったから測定には関係ないんだろうけど。あと、CT画像が妙にリアルで嫌だった。レントゲン写真の方が好き。

手術の説明をされたけど、全然想像ができなかった。骨を元の位置に戻してプレートで固定するらしい。固定のために骨に穴開けてネジみたいなの差し込むらしい。え、骨に穴開けちゃうんですか。ピアスすら開けたことがないのに。うーん仕方ない。それにしても折れている骨に追い討ちをかけるように穴を開けるの面白いよね。鎖骨の下は神経が集中してるから、穴あけ過ぎて神経傷つけたら後遺症が出るかもしれないらしい。怖ぇ。先生曰く「相当失敗しない限り大丈夫。まぁ僕の実力次第ですけどね」ひぇ。

入院準備のためにいろいろ検査。身長がちょっと伸びてた、やったね。体重は、まぁもうちょい増やしたいね、うん。PCRもやったんだけど、余裕で陰性だった。大学行って人と接触することもあるのに、問題ないらしい。感染している人たちってどこで何してるんだろうか。

 

方々に報告をした。一方では過剰に心配され、他方では怒られ、また一方では笑われた。正直笑ってくれた時が一番楽だった。骨折した本人も笑ってるから構わない。

入院するまでは普通に大学へ行ったし、なんなら実験してた。友人がやってるコントライブにも行ってきた。爆笑したんだけどさすがに骨に響いた。痛い。

 

そんなこんなで入院当日。肩を庇いながら電車に乗る。人にぶつかられるのはさすがに怖い。 固定も何もしてないから他人からは常人にしか見えないし。もしかしたら隣の人も、見えないだけで怪我や病気を抱えているかもしれない。うーん、コメントしづらい。

 

手術は午後だから病室で時間潰し。パソコンもポケットWi-Fiも持ってきたから完璧だったはずなんだが、なにせ痛い。ええ痛いんですよ、点滴の針が。

骨折よりも点滴の方が痛いの意味わかんないんだよね。でも痛いから無理。両腕動かせない。おしまい! ということで寝ることにした。睡眠は大事。

 

 

下駄箱を開けたが、そこにあるべきものがなかった。解決する術はないので素足のまま階段を上る。教室の扉を開けた。何人かの視線が集まる。構わず机に向かう。机の中に紙屑が入っていた。中身も見ずにそのままゴミ箱に入れた。後ろから声をかけられた。何を言ってるかは聞こえなかったが、目は笑っていない。不快だった。

 

 

ぼんやりと目を覚ました。夢の内容を覚えたまま目覚めるのは久しぶりだった。しかもしっかり悪夢。仲がいいと思っていた高校同期が相手だったから尚更へこんだ。

着替えたばかりの手術着も、汗で湿っていた。

 

思っていたよりメンタルが弱っていたのを認識し、手術室へ向かった。みんな緑の服を着ていた。知識として知ってはいたけど、実際に見たのは初めてだった。これを書いている今気づいたんだが、着替えさせられた手術着も緑だった。

名前と怪我部位を確認し、手術台の上に寝転ぶ。ドラマに出てきそうな大きなライトが目の前にあった。バンって眩しい光を放つのは気を失ってからだろうか。

看護師さんたちが忙しなく作業をしている。ピッ、ピッと鼓動が機械音に変換される。麻酔科の先生がやってきた。

「顔小さいねー。最近の若い子ってみんなこんななの?」

「いやーどうなんですかね。僕は顔小さいってよく言われますけど」

ここが手術室とは思えない会話。身長が低いから、頭身は大したことない。

 

視界がぼやけてきた。おかしいな、メガネはかけたままのはずだけど。急に咳き込んだ。息が苦しい。

「あー麻酔効いてきましたね。落ち着いて深呼吸してー」

え? 麻酔?

事前に全身麻酔を経験した友人の話を聞いたんだが、酸素マスクみたいなのつけて、深呼吸したら落ちていたらしい。自分の手術もそうなんだろうと勝手に思っていた。

が、見込みが甘かった。マスクなんてつけてないぞ、俺は!

朦朧としてきた意識の中、必死に考えた。いつの間に盛られてしまったのか。

 

そういえば、手術台に横になった後、左の方で点滴をいじられていた気がする。点滴を補充しているだけだと思っていたのだが、違ったのか。あそこから麻酔を注入されていたってことか。真偽のほどは定かではないが、そうとしか考えられない。

やられた。完全に不意打ちで麻酔を打ち込まれてしまった。麻酔、一番楽しみにしてたのになぁ。混濁した意識はそのまま闇へ落ちた。

 

 

「…さーん。聞こえますかー?」

 

声が聞こえて目を覚ました。今回は夢を見なかった。そもそも麻酔中でも夢って見るのだろうか、分からない。目を開くと何人かの顔がこちらを覗き込んでいた。どうやら終わったらしい。

寝起きとは少し違った、ふわふわした感じ。頭がぼんやりして視界もはっきりしていない。でも声はちゃんと理解できるし、体も動かせた。

指示されるがままにストレッチャーに移動した。仰向けのままモゾモゾと横移動する。芋虫みたいって思ったけど、芋虫って横移動するのだろうか。

 

「…さーん、…さーん」

 

今度はなんだ?

 

「病室つきましたよ。ベッドに移動しましょうかー」

 

眠っていたらしい。再びモゾモゾと体を動かす。

 

「あーストップ! 行き過ぎ行き過ぎ、落ちちゃいますよ」

 

相変わらず視界はぼやけているのでよくわからない。言われた通りにベッドの中央に戻った。

 

「麻酔まだ抜けきってないと思うので、しばらくそのままでね。何かあったらナースコールしてくださいねー」

 

はーい。

返事をしたつもりだったがうまく声が出なかった。それにしても眠い。そう認識する間もなく三度記憶が途切れる。

 

 

 「…さーん、開けますよー」

 

仕切りのカーテンが勢いよく開けられた。まだ視界ははっきりしていないがおそらく執刀医だ。体を起こす。

 

「手術は問題なく終わりましたよ。気分はどうです?」

「まぁ、今のところ大丈夫です。痛いですけど」

「痛いのはねー、どうしようもない。この前出した痛み止め飲んでおいてね。あと水分とか食事も摂って大丈夫だから。夕食も後で持って来させますね」

 

ふと気づいた。メガネかけてないじゃん。道理で見えないわけだ。テレビ台の上に置かれたメガネを無造作に掴む。おおー見える見える、麻酔とか関係なかったわ。

肩がズキズキと痛む。手術前よりも痛い。そんな理不尽なことがあってたまるか。そういえば点滴の痛みが全くない。痛みは別な痛みで上書きされるらしい。変な感じ。まぁおかげで左腕は余裕で動かせるから助かった。

作業をする気力はなかったから基本的には寝ていたが、食べたり歩いたりに難はなく、本当に麻酔を食らっていたのか疑わしい。鏡に映った生々しい傷跡と見てようやっと自覚した。 

 

 

翌朝。

血圧や体温を測るが特に問題なし。気分も悪くない。ただ、痛みは昨日よりも酷い。ベッドから体を起こすのにも一苦労だった。

「体調も問題なさそうだし、午前中に退院しちゃっても良さそうだね。どう? 退院できそう?」

「え、退院できるできないの基準って何なんですか?」

「自力で家に帰れるかどうか」

嘘つけぇ、そんなバカな話あるかぁ! 心の中でツッコんだ。初診の段階でこのお医者さん大丈夫かなってちょっと思ってたんだけど、まじか。冗談なのか本気なのかわかんねぇ。

とはいえ退院できるなら願ったっり叶ったりだ。カーテン越しの鼾を聞きながらよりも一人の自室の方がよっぽど休めそうだ。

ということで無事に退院した。手術開始から24時間も経っていない。ほんとに大丈夫なのだろうか。 痛みと戦いながら帰宅した。一気に疲れが押し寄せてきた。身体が熱い。39度を超えていた、あー。思考力が落ちているのでとりあえず寝ることにした。やはり睡眠は大事。

 

 

夢を見ていた気がするが起きると同時に忘れた。悪い夢ではなかったと信じている。熱も痛みも相変わらずだが、明日になればよくなりそうな気がした。根拠はない。痛みの少ない腕の位置を模索した結果、クッションを脇に挟むのがベストだった。いや、マジで完璧。どれくらい完璧かというと、今両手使ってタイピングできてる。全然痛くない。クッション最高。外出時もこれを抱えたいレベル。

 

後日病院へ行ってレントゲン写真を見せてもらった。2本に分断されていた骨が元の位置に戻っていて、板があてがわれていた。ネジが骨を貫通していた。しかも骨よりも何倍もくっきりと写真に映ってやがる。俺のおかげですよと言わんばかりの自己主張だな、金属どもめ。

 

リハビリの部屋に行ったら以前お世話になった整体師さんと再会した。一年ぶりくらいか。

「前回が部活で、今回はスノボかー。また派手にやったねー」

「あはは」

なんかすんません。

「でもスノボは楽しかったでしょ?」

激しく頷いた。わかっていらっしゃる。

 

 

 

卒部しました(下)

平成31年5月1日。

令和という元号が誕生したため「存在しない時間軸」としてこう表現されるのを何度が見たことがある。平行世界なるものが存在するのならば、向こうの世界の2020年、平成32年はどんなものだったのか。ひとつまみほどの妬ましさをまぶしながら空想する。

 

さて後編です(前編はこちら)。こっちは2020年、躰道人生最後の1年間の話を少々。

 

 

存在しなかった一年

コロナで2020年の全ての大会が中止になった。2月くらいに春合宿の中止が決まり、あれよあれよという間に練習が中止され、緊急事態宣言も発令され、そして大会が全滅した。

何なんだこれは。家に引きこもりながらただ日々が過ぎていた。何をしていたかを思い出してみたが、アニメを見たり本を読んだり、少し筋トレをしていたくらいだった。いつの間にかオンラインでの稽古が始まり、夏の終わりくらいからは少しずつ対面での練習が再開した。それでも「いつの通り」からは程遠いものだったし、情勢を鑑みてもこれが「新しい平常」として受け入れなければならないと感じていた。

体感的には最も短い一年であったのは否めない。実際今までできていたことが全く通用しなくなり、密度も低くなったのだから。しかしそれゆえにか、今までで一番「何かをやろうとした一年」だったように思う。

 

妥協ではなく、すり合わせ

前編でも書いたが、学肆時代の目標は団実と転体の二つだった。そして早速前者が潰えた。つまんないな。大会がなくなったことよりも団実の選考がなくなったというところにやるせなさを感じた記憶がある。そもそも大会に出ることそのものには関心はなかった。ただ客観的に実力を評価してもらう場が欲しかっただけだった。その手っ取り早い「場」が学大団実だったのだろう。この一年全力で練習し、その上で戦力外通告を突きつけれらるのなら文句はないし、むしろ清々しいとまで思っていた。が、その機会すら奪われてしまったのだ。こればっかりはどうしようもないことではあるが、正直実戦へのやる気は完全になくなった。そもそも接触を伴う実戦ができるようになるとは思えなかったというのもあり、早々に転体に絞ることにした。

そうすると目標は非常に明快で、二段審査の受審の一点張りだった。二段審査すらできない、というのは考えたところで仕方ないので考えないことにした。別に退部っていう選択肢は初めから持ってなかったので、躰道や部への向き合い方に悩むことは全くなかった。我ながら珍しいことだったと思う。

 

呪い

ハイキュー!!』という漫画をご存知だろうか。とか言いながら俺はアニメしか見ていないんだが、高校バレーの漫画だ。その初期の頃、主人公が中学時代最後の試合でこういうセリフをぶつけられていた。

 

「お前は3年間、何やってたんだ」

 

なかなかにぶっ刺さった。スポーツやってる人間がスポ根系の漫画とかに触れると絶対どこかで心に刺さるシーンに出会うと思っているんだけど、これは今までで一番のそれだった。

躰道4年目、何もできないことがほぼ確定してしまったこの状況で、これまでの3年間を全否定されそうになった。確かにこの3年間何やってたかというとぼんやり躰道やってただけだった気がするし、何ならコロナがなければこの1年も同じように過ぎていたかもしれない。

できることが少なかった分考える時間が増えた結果、この言葉がずっと頭から離れなかった。俺は3年間何をやってきたのか、この1年、何をするべきなのか。座右の銘と言えば聞こえはいいが、今思い返すとある種の呪いだったのかもしれない。

普段の自分ならメンタル弱々モードになるんだが、不思議なことにそうはならなかった。二段審査という明確かつ至上の目標を掲げていたからだろう。3年、いや4年間やってきた躰道をここで表現する。そのためだけの1年間だった。

 

本気になれない

さっきから同じような話になってる気がしたから、少し違う話題を。卒部の言葉で同期が言ってたことだが、何かに本気になることができないらしい。全力を出したが届かないという結果を突きつけられることを恐れているからだそうだ。

その気持ちはすごく分かるし、誰しもがそうだと思う。でもさ、後から振り返ってみて「これは全力でやった」って断言できることはほとんどなくて、ほとんどの場合は「もうちょっと頑張れた」ってコメントが出てくると思う。じゃあ実際当時の自分は本当にもっと頑張れたのか、というと必ずしもそうではないだろう。もちろん本人が手を抜いたという自覚があるなら話は別だが、その場合は「もうちょっと頑張れた」ではなく「あの時はテキトーだった」ってちゃんと評価するはずだ(プライドが高い人は知らん)。つまり「もうちょっと頑張れた」という評価は当時は全力だったと考えて良い。じゃあなぜ素直に「全力だった」と言えないのか、それはその結果に満足していないからだ。

全力を出した→結果は奮わなかった→自分へのダメージを抑えるため、「あの時はそこまで本気じゃなかった」と(無意識に?)言い訳する→実際に本気ではなかったと思い込んでしまう。

というのが俺の見解だ。異論は認めるが持論を引き下げる気はない。

何が問題かって現在の自分と当時の自分との間に明確な「結果」が必ず存在し、その結果への評価に惑わされてしまうってことなんだよな。結果の存在は避けようのないことなんだから、結果と過程を切り離して考える他ない。それもまた難しいことなんだが。

だから「もうちょっと頑張れた」という評価をした物事は、当時は全力だったのだと認めてあげるのが手っ取り早い。本気で何かをやってる時って自分が本気であることを自覚する余裕すらないだろうし。これは完全に俺の思想に関わることだが、みんなもうちょっと自分に甘くてもいいと思うよ。

まじで部活に関係ない話だったわ、なんだこれ。

 

二段審査と部内大会

本題に戻ろう。とはいえそこまでそこまで語ることはない。時間がないながらも転体の練習をし、バク宙もなんとか復活し、無事二段に昇段した。自分で言うのもなんだが、会心の出来だった。今までで一番うまく通せた自信があったし、今後何かの間違いで法形をやることがあったとしてもあれ以上のものにできる気がしない。部内大会の転体はボロカスだったからもし見るのなら審査の方を見てください、はい。

相対技法は知らん。ほとんど練習しなかったというのは言い訳以外の何物でもないのだが、そもそも二段審査という目標の大本は「転体に向き合う」だったので、そこは割り切っていた。その選択に関しては全く後悔していない。

そして部内大会。部内大会をモチベにやってきた人もいることは認めるけど、自分にとってこれはおまけみたいなものだった。捻体団法できたのはよかったかな。足絡み揃うとめちゃめちゃ綺麗だなって改めて思った。書くの疲れてきてすごい適当な文章になってる気がする。

 

確かに存在した一年

コロナで2020年の全ての大会が中止になった。何もできなかったのは事実だし、密度も圧倒的に低い一年だったのは言うまでもない。それでもできること、やりたいことを全力でやれたし、後悔はない。むしろやることをかなり絞ったおかげでうまくいったのかもしれない。

お前は2020年、何をやってたんだ。そう問われたとしたら自信を持って答える。

 

俺は躰道をやってきた。

 

卒部しました(上)

 

「…これで2020年度最後の稽古を終わります。…」

 

同期の声が聞こえた。終わってしまうらしい。ここに来てようやく実感が湧いた。

 

「…正面に対し、礼」

 

休憩時間に後輩から卒部の感想は?と聞かれた。何も思いつかなかったから笑ってごまかした。

 

「…お互いに、礼」

 

今だったらもう少し気の利いたことが言えたかもしれない。

 

「「ありがとうございました!!」」

 

一瞬だけ、ほんの少しだけ、目頭が熱を帯びたように感じた。

 

 

こんにちは、またある時はこんばんは。そしてお久しぶりです。

 大学4年間続けてきた躰道部をこの前卒部しました。4年間もやっているとまあいろいろ思うこともあるので、ここで書き散らかしていこうと思います。誰かに届けようとかそういうつもりは特になく、ただひたすらに自分語りです。けれど、どこかで誰かの心に残ってくれるとこの文章も少しは浮かばれるなあと思ったりもします。

 

では、宣言通り書き散らします。

 

 後付けの語り部

身体を動かすのが好きだった。躰道である必要はなかったし、今思い返しても躰道でなくても4年間楽しめていた自信はある。じゃあなぜ躰道だったかと問われると、正直なところあまり覚えていない。かっこよかったから、雰囲気がよかったから、は確かに事実だけど、後付けな理由な気がしてならない。最も正解に近いのは、なんか自分に合ってそうっていう直感だったと思う。実際これほど激しく全身を使ったスポーツは初めてでそれがめちゃくちゃ楽しかったし、自分の身体を操る能力が拡張していくのがたまらなく心地よかった。

 

チームプレイが嫌いだった。負けた理由を他に求めようとしてしまう自分が嫌いだったのと、自分のミスで仲間に迷惑をかけるのが嫌いだったのと、何よりそれで周りから気を遣われるのが嫌いだった。やるなら絶対に個人競技と決めていた。勝ちも負けの全部自分の責任で済むから。負けたのは自分が弱かっただけ。それ以外の理由を完全に排除できるし、競技スポーツはそうあるべきだと思っている。集団の中でミスに怯えながらプレーするより精神的にかなりラクだったし、楽しかった。この先何かスポーツをするとしても、チームスポーツは絶対やらないんだろうな、と予感している自分もいる。

 

この好きと嫌いは躰道と向き合う上での根底というか、信念に近いような存在として自分の中にあったように思う。

 

 

はみ出し者

個人競技が決め手の一つになった躰道部で、入部早々団体競技に囚われてしまった。新人団体法形。たぶん肌に合わないだろうと思っていたし、実際うまくいかなかった。それ以前に同期のレベルが高すぎてメンバーにすら選ばれなかった。これに関しては好き嫌いとか関係なく悔しいと感じた記憶がある。でも同期たちがワンツーフィニッシュで注目を掻っ攫ったのは素直に嬉しかったし、それは「チーム」も悪くないと感じた瞬間でもあった。

 

そうは言っても競技としてのチームはやはり苦手だった。方々からの批判覚悟で言わせてもらうが、展開は好きになれなかった。競技そのものは好きだしかっこいいし、やってみたいとも思っていたが、採点方式ってのがダメだった。一人ひとりにその場で点数がつけられて公表されるとか、戦犯はお前だって指差してるようなもんじゃん。自分が畳に立とうとすると一番に心がやられるという確信があった。うまくなればいいと言われればその通りだが、その過程で苦しみ続けるのは自分が持つ躰道との向き合い方とかけ離れていた。

今思い返すと展開チックなものを作ったのは学壱の駒祭展開が最初で最後だった気がする。

 

 

学惨

躰道人生で印象深かった時期はやはり学参だろうか。学肆時代もなかなかだったけどまぁそれは後で書く。正直当時の自分もこれは一生心に残る時期だろうと感じていた。黒帯になり、フィンランドに行き、バク宙を跳べるようになり、そして骨折した。骨折した話はこちらで書いたが、まぁ簡単に言うとバク宙で墜落した。指じゃなくて掌の骨ってところもなかなか意味が分からない、どういう落ち方してんねん。

尽く高等運身に嫌われていた。朝練で練習してる割にまともに跳べるようになったのは学肆になってからだった。黒帯審査ではやるなと言われたバク転を無理やりやったら鼻をぶつけて鼻血を撒き散らした。この件は先生や先輩にはご迷惑をおかけしました、はい。大事に至らなかった故の結果論だけど、それでもあれは正解だったと思う。『図書館戦争』シリーズの堂上教官の言葉を借りるとすれば、「反省はしている。だが後悔はしていない。」ってところか。細かい台詞は違ったかもしれない。あそこで自分が折れればいつか何かのきっかけで退部することになるっていう予感があったし、無茶をしたおかげでいろいろと吹っ切れることもできた気がする。うん、あそこで跳んだ俺はえらい。あと一級審査くらいから、法形が好きになってきた。今まで法形が下手くそだった分成長率が高かっただけなんだろうけど、やった分だけ成長するのが実感できて楽しかった。

 

 

楽参

黒帯とったらもう自由。というのは極端だが、まぁ学参時代はやりたいことをやっていった。大会に出たい&海外に行きたいという理由でフィンランドの国際親善大会に出場した。しかも一緒に変陰団法を組ませてもらい、なんと優勝してしまった。団法経験皆無で、しかも他4人が全員後輩という状態でまぁよくやってのけたわって思ってしまう。めちゃめちゃいい経験をさせてもらった。あと変陰ってかっこいいよな。見るのも楽しいしやるのも楽しい。数ヶ月しか練習できなかったけど一番好きな法形かもしれない。

実戦? まぁほどほどに本気でやってたかな。できることもやりたいことも増えてきて結局うまくいかないっていうのが多かった。キツイかキツくないかといえば当然キツイが、部活ってそんなもんだし、練習しないとうまくなれないんだから仕方ないよね。でもやっぱりキツイよりも楽しいの方が上だったと思う。勝ちに拘らずにやりたいことをやろうって気持ちでやってたのが大きい。実際負けた試合でもここは我ながらいい動きしてたって思うこともあるし、技もらっても「うわーめっちゃ綺麗に食らったわ、俺もこれやりてー」ってニヤニヤしながら中央に戻ってたことなんかザラだし。まぁ何が言いたいかというと躰道楽しいぞってこと。まとめ方雑だしペラッペラだな。

 

 

天才たちへの憧憬

躰道人生を語るにはやっぱり学生大会は不可欠ですかね。結局一度も出場することなく卒部したんだけど。学参のときはあわよくば団実に、とは思っていたけど骨折してて動けなかった。怪我がなかったら出られる実力だったかというと決してそうではなかったから、ある意味都合のいい言い訳になってしまった(「い」が4連発してタイピングの違和感が凄かった)。気に食わない。どうせ出られないなら「お前は弱いから」の一言が良かった。メンバー発表の時のことは今でもよく覚えている。当時自分を含めて同期が3人怪我していて、うち1人だけがメンバーに選ばれた。一番軽い怪我だったし実力的な面でも何の文句もなかった。ただ、自分が選ばれなかった理由が「怪我」っていうのが不快だった。発表してる時の先輩も珍しく歯切れが悪かったし、それは先輩の優しさゆえであって先輩は何も悪くないんだけど、でもやっぱりモヤモヤしてしまった。来年はちゃんと実力で評価され、その上でばっさり切り捨てられよう、改めてそう決心した。

学大当日のことは正直あんまり覚えてなくて、ただただ「感動した」という感情の記憶だけが妙に鮮明に残っている。何にどう感動したかははっきりしない。まぁ同期たちが主力としてバカみたいに活躍してたのと、団実がアツかったってところだろう。間違いないのは「来年は自分があの舞台に立ちたい」という気持ちだった。大会にあまり興味がなかったはずなのにそういう思いが生まれたのは、やはり選手たちの活躍に感銘を受けたからなんだと思う。

 

骨折も無事に完治し、いよいよ学肆時代。目標は割とはっきりしていて、転体に向き合う(実力が伴えば二段審査)と、学大団実に出場するの2点だった。と気持ちを新たにしたのも束の間、2020年という、先の見えない最悪の1年の幕が開ける。

今度飲みに行きましょう

 

 

「また機会があったら呼んでください」

 

年始に高校の部活のメンバーで集まった後、後輩からインスタのDMでご丁寧に連絡がきた。LINEではなくインスタを使ってきたとこに少々面食らったりもしたが、結局それ以降会っていない。お互い東京に出てきた身なのでその気があればいつでも会える。でも連絡すら取ろうとしない。そもそも「今度飲みましょう」なんて社交辞令みたいなものだし、後輩から先輩に向けた言葉なら尚更だろう。お互いわかった上での決まり文句。真に受けたほうがバカを見る、いやちょっと言いすぎたかもしれない。

 

 

「コロナ終わったらだね」

 

このご時世にぴったりなセリフが誕生した。そもそもコロナに終わりなんてあるんかって疑問もあるし、もはや「コロナ終わってないから飲む気ないわ」とも取れる気がする、ひねくれてるな俺。

3月くらいだったか、ひょんなことから高校同期に貸しを作って飯を奢ってもらうことになっていた。コロナ落ち着いたら行こうという話になってかれこれ半年間音沙汰はない。別に貸し借り云々は気にしていなし奢ってもらうために助けたつもりもない。もともと頼まれたら断れないタチなのでそういう意味で損をすることには慣れていた。とはいえ奢ってもらう手前こっちから「おい飯奢れよ」とは言えないし、なんだかんだこの件はなかったことになりつつ、同窓会とかで会ったときにそう言えばそんな話したなぁってなるんだろうな、とか後日譚まで想像する。

 

 

「まぁ今度飯でも行きましょうや」

 

オンライン授業になってほとんど会わなくなった学科の友人とLINEしてたときにふとこぼした言葉。割とちゃんと会って話したい相手だったのに自ら社交辞令をぶちかましてしまった。向こうもそんな本気じゃないだろうし、テキトーにスタンプ送って終わるかーって思っていたら具体的なスケジュールの話になった。救われた。大袈裟かもしれないが、相手が俺という存在を「会って話したい」人間だと認めてくれた気がして安堵した。同時に「向こうもそんな本気じゃないだろうし」と思ってしまった自分を恥じた。相変わらず人との距離感がつかめない。

 

 

「今から飲みに行かないか?」

 

渋谷の街を一人でふらふらしてたら知らない男二人から「この辺にいい居酒屋ないか?」と声をかけられた。居酒屋とかありすぎて逆にわかんねぇよって思いつつ、センター街とか行っときゃええやろみたいな趣旨のことを言った。30手前の二人組で、この二人も飲みの場で知り合っただとか。そういう知り合いが他にも複数いて頻繁に遊んでいるだとか。

標本が自分だけなので当てにはならないが、一人で歩いていると知らない人に声をかけられることが多いと感じている。そんなにチョロそうに見えるのだろうか。当たり前だがキャッチやティッシュ配りはカウントしていない。

軽く雑談していたらなぜか今から一緒に飲まないかと誘われた。残念ながらちょうど食事を済ませて帰るところだった。そしたら今度はLINEの交換を迫られた。さーて困った困った、というのは嘘で一瞬の迷いもなくお断りした。別に危ない雰囲気は全くなかったんだけど、知らないおじさんについて行ってはいけないと小学校の頃に教わったのだから仕方がない。

とはいえ全く異なる年齢層のコミュニティに所属するという点では面白かったのかもしれない。今の自分のコミュニティは近い年齢の人たちだらけで、年上といえば部活のOBOGくらいだろうか。俺の欲している人間関係とはちょっと違う。やはり自分の中のどこかで「新しい出会い」を求めていたのかもしれない。

今度この手の人間に声をかけられたらついて行ってみようかな。変な宗教に勧誘されたらその時はその時だ。

 

 

「今度飲みに行きましょう」

 

最近になってようやく気づいたんだが、このセリフは自分の中で地雷なようなものになっているらしい。自分も意図せず使っているが、本心では飲みに行きたいと思いつつ相手への遠慮というか敬遠されることへの不安みたいなものがある。逆に向こうから来た時にはもうおしまい。相当好きな人じゃない限り自分から誘うことはないだろう。めんどくさい人間だな。

結局何が言いたいかというとほんとに飲みに行きたいんなら「今度」じゃなくて具体的にスケジュールの話をしろってことですよ。文字にしてみたら当たり前すぎてアホらしくなってきたわ、なんだこれ

 

どうでもいいけど誰か飲みに行こうや

 

坂道

 

「同じ坂でも進む方向次第で登り坂にも下り坂にもなる」とか聞くけれど、じゃあ登りが辛いからって反転して坂を下ったところで進むべき道は進めていないし、坂を目の前にした本人からすれば何の解決にもなっていないわけでありまして。

 

水の低きに就くが如し。個人的には「自分の意思で進んでいる」と実感できる上り坂の方が好きなのだが、下りが楽であるというのはやはり事実である。人もまた、易きを求めて低きへ流れるということだろうか。

 

時に渋谷の地形はその名の通り複数の坂に囲まれた谷である。渋谷に人がたかるのもまた、低きに流れた結果と言えるのではと思いもしたが、たぶんこれは関係なかろう。

 

ともあれ人は得てして「楽」を求めがちであるが、それは「努力していない」と批判の対象ともなる。低きに流れ、易きを求めることは不善とみなされ、「低い」にも負のイメージが付き纏う。人生の下り坂といい転落といい、行き先たる「低き」にその感覚が伴うのは至極当然と思われる。

が、不思議なことに「水の低きに就くが如し」と唱えた孟子はこれを引き合いに性善説を主張したという。全く訳が分からない。

 

そもそも水が低きに流れるのは自然の摂理として道理なことであって、たとえ人が自然の流れに沿うとしても、その行き着く先が「善」であることの説明にはなっていない。むしろ「低きは悪」という観念があるために、性悪説の根拠として使われかねない。どちらにせよ人の善悪を示す根拠として不十分であることに変わりはないのだが。

私の考えが浅はかなだけなのか、それとも孟子が口八丁なだけだったのか。「孟子口八丁説」と言われるとなかなか面白おかしいところもあるが、そもそも後世に伝わるほどの言葉を残すような人間が口下手なはずがない。私の何倍も聡明で、口が達者であっただろう。亦羨ましからずや。

 

ついこの前神楽坂を散歩したのだが、そこから少し外れたところに「庚嶺坂」なる坂を見つけた。江戸時代初期に命名され、なぜか幽霊坂とも呼ばれているらしい。せっかくだから登ってみたが、特に何もなかった。住宅街。かろうじてあるのはそれっぽい感じの神社。それだけ。苦労の先に必ずしもいいものがあるわけではないんだなぁ、とか平凡な感想を抱いたりした。

 

それにしても下り坂の先は上からでも見えるのに、逆は全く見えないなんて理不尽だな。その上登る方がしんどいときた。やってらんねぇなまったく。

 

 

作り話

 

世界の滅亡まであと1時間。女はベッドに腰掛けたまま躊躇していた。昔の恋人に電話をかけるか否か。

しばらく悩んだ末に電話をかけた。

「おかけになった電話は電源が入っていないか、電波が…」

女は枕にスマホを投げつけた。

どうせ、どうせ…

世界の滅亡まであと57分。

 

 

 

「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」

ドン!!!!

「それは白雪姫でございます」

「…いや美しいに対して『ドン!!!』じゃないでしょ、気品がないというか」

「それはそうですね」

「あまりの効果音に気を取られちゃったから、やり直しね」

「はあ」

「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」

キラララーーン

「それは白雪姫でございます」

「…あのね」

「はい?」

「白雪姫、じゃあないんだよ。なんのためにやり直させたと思ってるの。真意汲みとってよね」

「はあ」

「鏡よ鏡、世界で一番美しいのはだあれ?」

ドン!!!

「それは貴方様でございます」

「…割るぞ」

「やっぱり気品のなさが出てますね」

 

 

 

核戦争が勃発、人類が滅亡して幾年か。終末時計は残り1分のまま、誰にも進められることなく迎えることのない終末を待ち続けていた。

 

 

 

プルルルルル…プルルルルル…ガチャッ

「もしもし?オレオレ」

「合言葉は?」

「え?えっと、、本日は晴天なり…?」

「1時間後、例の場所で」

ガチャッ、ツー、ツー

「ちょ、え?…これ俺がお金用意する感じ?」

 

 

 

世界の滅亡まであと1時間。手当たり次第に知り合いに電話をかけるも全員通話中で、自分の存在価値を見失ったまま終わりを迎える話。

 

 

 

余命半年と宣告されて真っ青な大富豪、後継に一銭も残さない傲慢さで金を使い果たすが、宣告した医者は対立財閥の刺客で、余命半年は真っ赤な嘘だと判明、一家から激しく疎まれながら真っ暗な余生を過ごす話。

 

 

 

「核戦争が勃発、人類が滅亡して2ƃ。現在地球上の知的生命体は…ん?『ƃって何?』って顔をしているな。そうだな、一昔前の言い回しだと『年』ってところだ。…なーるほど、貴様旧世代の生き残りだな。捕らえろっ」

 

 

 

 

魔王を倒す勇者の天職を授かった心優しい若者、道中は魔物を一切殺すことなく次々と仲間に迎えた。しかし魔王目前にまでたどり着いたところで魔女が裏切りをはたらく。魔王の寵愛を一身に受けんがため、勇者の首を討ち取り魔王に献上したのだ。親しき勇者を失った魔物たちは怒り狂う。魔女や魔王を食い殺すも怒りは収まらず、本能のままに村の人間をも襲うようになった。魔物たちも村の人々も、口々に叫んだ。

「「勇者が死んでしまったせいだ」」

 

 

 

世界の滅亡まであと1時間。男はベランダで空を眺めながら躊躇していた。昔の恋人に電話をかけるか否か。

突然、スマホが震えた。

驚きと緊張で震えながらも、男はスマホを耳に当てた。

「もしもし?オレオレ」

スマホを叩き割った。

世界の滅亡まであと58分。