はじめの一歩

 
 
「大人になるってなんだろう。」
 
最近頻繁に考えることがある。それでも結論は出ない。結論を出すべきことなのか、それすらもわからない。
 
 
先日成人式に参加した。大人になった自覚は正直ないが、少なからず周囲からは自分を大人として扱ってくるはずだろう。恐ろしい社会に足を踏み入れてしまった、そんな気分。
 
成人、という区切りは二十歳を迎えればどんな人に対してもやってくる。それが今の日本の仕組み。しかし成人と”大人”はイコールなのだろうか。生まれてからの時間経過だけで、ただ歳を重ねただけで、人間という生き物は”大人”になれるのだろうか。言い方の問題かもしれないが。
 
兎にも角にも、成人というのは社会的に認められた一つの目安であることに変わりはない。僕たちは、自分がどう思っているかは別として、大人の一員になってしまってる。
 
つまり成人式とは、大人になったことを祝うものではなく、いい加減大人になれ、というメッセージを伝えるものということだと思う。
 
何度も言うが、僕は大人になった自覚はない。じゃあ子どもなのかと問われれば、それも違うと答えるだろう。じゃあ僕は一体何者なのか。
 
 
くそ、思春期じゃねぇか、気にくわねぇ
 

 

 
 
大人になるってなんだろう。
 
小学校の頃、大人はみな車を運転するものだ、という認識を持っていたことを覚えている。車社会の田舎出身というのもこの思考の形成過程の要因ではあるが、少なくとも当時は「大人になったら車の運転をしなくちゃいけない」と思っていた。そしてそれがものすごく怖かった。別に車に乗ることが怖いわけではない。事故にあった経験があるわけではない。ただ、怖かった、運転することが。
 
あの鉄の塊を自分の意思で操作できるはずがない。絶対暴れだすに決まっている。事故に遭ったら、死ぬ。
 
得体の知れない恐怖だけがそこにあり、僕はその意味で大人になることを嫌がっていた。大人になりたくたい、時間よ止まってくれ、本気でそう思っていた。
 
非情にも、時間が止まるなんていう奇跡は起こらなかった。今は運転免許を持ってるし稀にではあるが運転もしている。もちろん恐怖心はない。そして教習を通して大人になった自覚も、ない。
 
運転免許と大人になることはほぼ無関係。自明すぎたか。
 
 
 
大人になるってなんだろう。
  
仕事をしている人、だろうか。だとしたら学生である僕はまだ大人ではない。しかし就職している人イコール”大人”と言っていいのだろうか。仕事、という観点はおそらく経済的自立に由来している。そりゃ確かに手に職をつけて自力で生活できている人は大人と呼んでいいかもしれない。少なくとも親からの仕送りで食いつないでる学生どもと比べれば、職に就ている人たちはきっと大人だろう。それに、社会人であること、ということがそれなりにこの認識に影響をもたらしてるようにも思う。
 
仕事をしている人と社会人とは同等であると考えても差し支えなかろう。僕ら学生は社会人とは言えないし。社会に出る、というのは就職することに他ならない。そして社会人は、大人と言っていいかもしれない。
 
でもこれはきっと十分条件。仕事をしていない僕たち学生が子どもであるかといえばそれはまた違う。少なくとも大学院生は大人と呼んでもいいような気がする。でもそれは、院進せずに就職した”大人”と同年代であることを無意識に考慮した結果と指摘されれば、否定材料が見つからない。結局は仕事ということなのか。
 
 
そもそもずっと思っていたのだが、「子ども」という言葉そのものに語弊がある気がしてならない。僕の持っている勝手なイメージかもしれないが。大人でないこと、と 子どもであること、とが同じだとは認めたくない。子どもと大人という二元論そのものに問題がある。
 
 
じゃあ、大人でも子どもでもないような人は一体何者なのかって?
 
知るか、こっちが聞きたい。
 
 
 
なんだよ、反対するなら対案を出せ、みたいな目で見てくんなよ、めんどくせぇ
 
 
そうやって僕は筆を投げた。思考の堂々巡り。やってらんねぇなぁおい
 
 
 
 
 
大人になるってなんだろう。
 
大人になる、という言葉を聞くと僕はたまにケロロ軍曹を連想してしまう。
 
説明しよう。ケロロ軍曹とは、地球(ペコポン)侵略のために地球にやってきたケロン人が、一般家庭に居候しなが侵略計画を実行する感動の実話である!
 
これをあのナレーション風に脳内で再生していただけると非常に嬉しい。
 
 
解説はさておきなぜケロロ君を思い出すかというと、クルル曹長の秘密兵器に「大人の階段のぼる銃」なるものがあるからだ。アニメではその銃の光線を浴びた夏美殿がボンッキュッボンッになるというただそれだけの話。この道具がペコポン侵略に役立った記憶はない。
 
何が言いたいかというと、ケロロの世界において、より正確にはこの作品の主なターゲットである子どもたちにとって、大人というのは身体的特徴で区分されるのではなかろうか、ということだ。
 
まぁボンッキュッボンッは置いといて、身体のサイズで判断するというのは子どもならでは、という感じがする。身長の低い子どもにとって、身長が高いという事実は視覚的にも大きな影響があることは間違いない。「大きな人」イコール大人という、読んで字のごとくな状況を見事に生み出している。これが幼い子ども達にとっての”大人”ということか。
 
しかし非常に残念なことに、僕はもう「幼い子ども」ではない。背丈で大人かどうかを判断してしまうのなら、第二次性徴を終えた中高生もみな大人ということになってしまう。さすがに無理がある気がする。でも身長は基本的にはもう伸びないし、あと大きくなるのは横のサイズだけだ。太っていれば大人なんて、そんな馬鹿な話があってたまるか。満場一致で否決。
 
 
わかってはいたけど、身体面で大人を記述するのは無理があるな
 
 

 

大人になるってなんだろう。
 
身体面でなければやはり精神面か。 精神的自立ってやつだな、うん。
 
いや待て待て。自立ってなんだよ。自分の意思できちんと行動できるってことか? そんなの小学生でもできるぞ。「責任を伴った行動」ってやつか? 自分の意思選択に責任を取れない奴って誰だよ、ガキかよ。そうだよ、ガキだよ、子どもなんだよ。二元論が成立するなら、責任をとれる人間はきっと大人なんだろうな。
 
でも二元論を僕は認めない。第一、自分の言動すら責任を取れない大人だっているじゃん。まあそんな奴”大人”だとは認めねんだけどな。
 
責任以外にもきっと何かがあるはずだ。例えば、礼節をわきまえた態度。例えば、客観的視点から物事を捉えること。例えば、他者の意見に耳を傾け、かつ自分の考えもきちんと発信できること。
 
平凡なまとめ方になるけど、社会集団で生き抜くすべを持つこと。つまり世渡り能力、ということだろうか。世渡りって言葉には自分の中でマイナスイメージがあってあんまり好きじゃないけど、集団の中で生きていくためにはやはり必要だと思う。調和を重んじ、それでも自分の中にある芯は曲げない。そういう生き方。そんなにうまくいくほど世の中簡単じゃないし、この理想像が”大人”であれば、僕は一生かかってもなれない気がする。

 

あくまでこれは、理想像。現実に落とし込めるようなものじゃあない。理想論を語ることなんて、誰だってできる。大切なのはきっとその先。いかに自分の中に落とし込めるか。いかにそこに、近づけるか。
 
まぁ、その考え方そのものも結局は理想論なんだよな。大人になるって難しいな
 
 
大人になるってなんだろう。
 
色々考えてはみたが、結局よくわらない。一番しっくりきたのは、精神面だろうか。でも決定打ではない。多分これに、答えはない。というか、一言でこれだって言えるようなものじゃあない。
 
ずっと心のどこかに引っかかっていたものを一気に吐き出してしまった。気分は悪くない。
 
考えないことには始まらない。考え続けること、それが答えなのかもしれない。結論はまだ見えてないし、一生見つからないかもしれない。でもこれはきっと大事な一歩。はじめの、一歩。