寝ても醒めても、人は夢見る

「しょうらいのゆめは?」

 

 

–––––クワガタ!!!

 

隣の子がカブトムシって答えてた対抗心からだった。

絶対カブトムシよりクワガタの方が強いし

 

 

 

幼稚園の頃のこと。

「しょうらいのゆめ」を聞かれたのでとりあえず答えた感じだったか。僕は幼い頃のことなんて全く覚えていない。小学校のことすら怪しいほどだから仕方ない。

あと20年もすればきっと中高時代のことも忘れるのかな。さすがにそれはないか、信じたい。

 

というわけで幼稚園で覚えてることはこの「ゆめ」ととある同級生のことくらいだな。同級生の話はまた別の機会に。

 

とにかく園児というものはよく分からない生き物で、「しょうらいのゆめ」なんて聞かれて警察官や宇宙飛行士、パテシエとかが出てくれば上等で、ひどいやつなんかウルトラマンや鳥さん、泥団子だなんて答えをよこす。まあクワガタだなんて答えを出した僕が言えた義理ではないが。

 

それでもというか、だからこそというか、園児の発想は自由だ。

 

無知ゆえの自由。

 

無知は罪だというし、それは間違っていないと思う。ただこの幼き者が持つ無知の自由さは、少し色が違うような気がする。具体的には記述できないけど。

 

「誰かに笑われるようなアイデアを出さないと独創的なアイデアは生まれない」

 

詳細は覚えてないが、どこかの偉人さんが言っていた言葉。将来の夢が泥団子だなんてアイデアに独創性のへったくれもないが、いわゆる普通の大人たちに比べれば柔軟性があるような気もする。

 

 

何の話してんだろ、園児の話なんてただの導入のつもりだったのにな。

 

 

ここからが本題。

「将来の夢は?」と聞かれて、あなたはすぐに答えることができるのだろうか。

 

僕はできない。明確なビジョンがないから。

 

ないわけではない。本当にぼんやりと、やりたいことはある。ただそれを「夢」という大仰なものとして語れるものじゃあないし、はっきりしたものではない。

 

いや正確に言おう。「それ」を公言する度胸と、「それ」にきちんと向き合い努力し続ける自信がない。

 

これが俺の夢なんだって、誇りを持って言える勇気がない。それだけのこと。周りからバカにされるのが嫌だっていうわけではない。夢を語ることが恥ずかしいというわけではない。僕の中にいる冷めきった僕が遠くから眺めている。どうせすぐに諦めるんだろって–––––

 

 

 

1年近く前のことになるが、大学のゼミで知り合った仲間たちと夜通し語り合ったことがある。雑談というよりは議論に近い形で。各々の地元の話、趣味の話、地域格差の話、そして将来の話。

 

「俺さ、ずっと疑問に思ってることがあるんだけど」

 

話題が将来の夢に移り出したとき、彼は訥々と語り始めた。

 

「なんで夢の話をすると、みんな職業の話になるの?」

 

自分の中に電撃が走った気がした。全くその通りだった。なんでなんだろう。

 

確かに今まで僕が持っていた将来の夢は成長とともに移り変わりはすれど、常に職業だった。「将来の夢」が無意識のうちに「就きたい職業」に差し替えられていた。なぜなのかは分からないし、疑問に思ったことすらなかった。

「俺の『将来の夢』はドイツに住むことなんだ。そのために二外もドイ語にした。」

彼の『夢』は明確だった。本場のサッカーを見たい。ドイツ語で実況を聞きたい。彼をそこまで引き込むほどの魅力がドイツにあるのかは僕にはよく分からないが、その情熱は間違いなく本物だったし、他の誰にも劣らない立派な『夢』であることはよく伝わった。同時に、僕もドイツ語選択だったがそんな目的意識もなかったのが申し訳ない気持ちだった。自分は今まで何をしてきたのか。何をしたいのか。自分が惨めで仕方なかった。

 

職業っていうはお金の稼ぐため、生きていくための手段であって、目標というか、生きがいっていう『夢』とは全く別であるべきだ。それが彼の主張だった。

 

スポーツ選手や芸術家のように、趣味や好きなことをそのまま職業にしている人も一定数いるが、多くの人はそうではないはずだ。お金に不自由がないのなら働かないか、と問われれば僕は堂々とイエスと答える。つまり仕事は「やるべきこと」であって「やりたいこと」ではない。『夢』ではない。僕にとってこの考え方は一年経った今でも自分の中で転がり続けている。

 

突き刺さっているのではなく、転がっているんだ。

 

今の僕にとって、将来の夢はまだ職業に近いものになっているし、そういう自分を否定するつもりはない。ただ、『夢』に想いを馳せるたびに内側にいるこの考えが、自分を揺らしているような気がする。いつか殻を突き破って外に飛び出してきてくれそうな、そんな気がする。

 

じゃあ僕の『夢』ってなんなのか。いろいろ考えた結果、あまり嬉しくない事実に気づいた。

 

「やりたいこと」ではなく「できそうなこと」に思考が向かってしまっている。

 

ここで伏線回収。園児の話に戻ろう。

かの幼き者たちは達成の可否を一切無視した『夢』を語る。ただひたすらに「やりたいこと」「なりたいもの」を夢見ている。それに比べて今の僕たちはどうだろうか。現実をきちんと見ている、と言えば聞こえはいいが、それはたぶん『夢』ではない。「できるわけがない」という現実的な視点が邪魔をして、いつのまにか「できそうなこと」に主眼が置かれる。

 

成長とともに夢が移ろうのは同然のこと。現実を知れば知るほど『夢』は描き替えられる。それなのに新しいその夢は前よりも色褪せてしまう。重ね書きされたその未来図は時とともに黒く暗く、塗りつぶされていく。

 

いつのまにか何も見えなくなってしまった。あれもダメだこれもダメだと塗りつぶしてきた『夢』の残骸で、目の前が真っ暗になってしまった。

今かろうじて見えるのはつまらない現実の世界。そこに『夢』は描けない。いや、僕がそう思い込んで勝手に諦めているだけなのだろうか。僕たちが夢見ることができるのは、もう眠りの世界だけなのだろうか。夢と現はやはり同時に存在できないのだろうか。いつまでも『夢』物語に現を抜かすことはできないことくらいわかっている。それでも『夢』を見続けていたい自分もいる。真っ暗な現実に閉じこもっていたら、腐ってしまいそうだ。

じゃあ今「やりたいこと」ってなんだろうか。

本を読みたい、映画を見たい、ダラダラしたい

 

…ダメだこりゃ