特殊性を追い求めて

 

「一年生になったーら、一年生になったーら、友達百人できるっかな?」

 

百人規模で作ってしまった友達はたぶん大した関係ではないような気がする。

 

 

新年度だ。そういう噂を耳にした。実感はない。

世の中にはこの時期に新入生とか新社会人とかいう人種が大量発生するらしいが、日本人の大多数はそうではないはみ出しものだし、かくいう僕も御多分に洩れず、である。良く言えば共同体における先輩になる。悪く言えば一年老いた古い人になる。

 

人間という生き物はこれでもかというほど記念日を特別視する。四月一日の新年度もそうでだし、元日はいうまでもなく、異国の文化であるハロウィンやクリスマスまでお祭り騒ぎ。こういう言い方をすると僕は記念日とか節目なんてクソくらえみたいな尖った人だと思われるかもしれないが、そうではない。現にこうやって節目の日に際してくだらないブログを書き記している。結局は俗世をしっかり生きている、それだけのこと。

 

なぜ節目に固執するのか。きっと日常に辟易しているから。毎日同じことの繰り返し。

朝起きて、学校に行って、居眠りの片手間に板書を取り、家に帰って、夜更かしする。

朝起きて、通勤ラッシュの一因となり、平然と残業し、酒を飲んで、終電で帰宅する。

 

「こんな『日常』、もう飽き飽きだ」

 

誰が言ってもおかしくない。そう言って逃げ出す誰かもいないはずがない。人類一斉にボイコットしたら楽しそうだよな、誰か企画してくれないかな

 

記念日や節目を特別視してしまうのは、たぶんそこにある非日常性に魅せられているから。日常からは得られない何かがあると信じているから。そうやって日々の中に何かを見出さなければやっていけないくらい、心にゆとりがないのかもしれない。

それでも僕たちはこのつまらない「日常」をかなぐり捨てることはできない。そしてそれ故に、平凡な時の流れの中に節目という特殊性を生み出している。

どうあがいても、「日常」は平凡にしかなり得ない。人生のベースには常にこのしょうもないものが鎮座してる。僕たちにできることはそれをいかに調理するか。素材はすでに与えられている。どんなスパイスを効かせるか。それだけで味も変われば風味も変わる。色味だって変えられる。

 

そうやって日常は非日常にすり替わる。毎日が色付いて見える。平凡な日常を嘆いたって始まらない。いかにそこに特殊性を見つけるか、生み出せるか。

 

全ては自分次第だ