坂道

 

「同じ坂でも進む方向次第で登り坂にも下り坂にもなる」とか聞くけれど、じゃあ登りが辛いからって反転して坂を下ったところで進むべき道は進めていないし、坂を目の前にした本人からすれば何の解決にもなっていないわけでありまして。

 

水の低きに就くが如し。個人的には「自分の意思で進んでいる」と実感できる上り坂の方が好きなのだが、下りが楽であるというのはやはり事実である。人もまた、易きを求めて低きへ流れるということだろうか。

 

時に渋谷の地形はその名の通り複数の坂に囲まれた谷である。渋谷に人がたかるのもまた、低きに流れた結果と言えるのではと思いもしたが、たぶんこれは関係なかろう。

 

ともあれ人は得てして「楽」を求めがちであるが、それは「努力していない」と批判の対象ともなる。低きに流れ、易きを求めることは不善とみなされ、「低い」にも負のイメージが付き纏う。人生の下り坂といい転落といい、行き先たる「低き」にその感覚が伴うのは至極当然と思われる。

が、不思議なことに「水の低きに就くが如し」と唱えた孟子はこれを引き合いに性善説を主張したという。全く訳が分からない。

 

そもそも水が低きに流れるのは自然の摂理として道理なことであって、たとえ人が自然の流れに沿うとしても、その行き着く先が「善」であることの説明にはなっていない。むしろ「低きは悪」という観念があるために、性悪説の根拠として使われかねない。どちらにせよ人の善悪を示す根拠として不十分であることに変わりはないのだが。

私の考えが浅はかなだけなのか、それとも孟子が口八丁なだけだったのか。「孟子口八丁説」と言われるとなかなか面白おかしいところもあるが、そもそも後世に伝わるほどの言葉を残すような人間が口下手なはずがない。私の何倍も聡明で、口が達者であっただろう。亦羨ましからずや。

 

ついこの前神楽坂を散歩したのだが、そこから少し外れたところに「庚嶺坂」なる坂を見つけた。江戸時代初期に命名され、なぜか幽霊坂とも呼ばれているらしい。せっかくだから登ってみたが、特に何もなかった。住宅街。かろうじてあるのはそれっぽい感じの神社。それだけ。苦労の先に必ずしもいいものがあるわけではないんだなぁ、とか平凡な感想を抱いたりした。

 

それにしても下り坂の先は上からでも見えるのに、逆は全く見えないなんて理不尽だな。その上登る方がしんどいときた。やってらんねぇなまったく。