サラダ油に火はつかない

あのーこれは私の友人のー、そうですね、仮にAさんとでもしておきましょうか。その人から聞いた話なんですけどね。

Aさん、仕事帰りに小田急の電車に乗ったんですけどね、座席に座ってウトウトー、ウトウトーってなっていたんです。そしたら急にキキキーって、電車が止まったんです。

駅に着いたわけでもなくて、窓の外も真っ暗で、「あれー? おかしいなあ。変だなー」ってAさんは思ったんですよ。

 

でね、Aさんは見ちゃったんです。えぇ。小田急線で刃物振り回してる人がいるってのを。

Twitterでね。

 

ゾワッと背筋が凍るような気持ちだったんですよ。同じ電車にいるかもしれない。

やだなー怖いなあーって思いながら、Aさんはキョロキョロ、キョロキョロしてね。隣の車両から殺人鬼が来やしないかとそれはもう不安で不安で。

 

そしたらね、ガチャンって、すっごい大きな音がしたんです。

 

電車が動き始めただけなんですけどね、えぇ。

 

Aさんはあまりに驚いてそれ以降のことはあんまり覚えてないらしいんですけどね、とりあえず無事に家に帰って、調べたら犯人も捕まってたそうなんですよ。

 

いやー電車で刃物振り回すなんて、怖い話もあるものですねぇ。

 

 

 

まあ茶番はこの辺にしておいて。私もちょうど電車に乗ってたからかなりビビった。小田急の場所と自分の位置を見て「まぁ大丈夫かな」って。同じような人がすぐ近くにいる可能性も0ではないのに。

Twitterではフェミサイドとかナンパ師とかいろんな言葉が飛び交ってたけど、タイトルの通り本題はサラダ油のお話。

 

 

それは事件翌日のことだった。友人が、

小田急の事件、サラダ油撒いて火をつけようとしてたらしいよ」

と話していた。それに対する私の反応は、

「うわー怖っ、未遂でよかったー」

という淡白極まりないものだった。

 

……お分かりいただけただろうか。

……もう一度ご覧いただこう。

 

小田急の事件、サラダ油撒いて火をつけようとしてたらしいよ」

「うわー怖っ、未遂でよかったー」

 

そう、当時の私は「サラダ油で火事が起こる」ことに全く疑念を抱かなかったのである。

 

ここで「キャーー」という無駄に甲高いSEが入る。ワイプに映った誰かが顔を手で覆いながら目線を逸らす。「こんな無知な人間がこの世に存在するなんて」と。

 

 

再び茶番を脇におこう。当方理系の学生だが、サラダ油が引火しないなど初めて知った。より正確に表現するならば、初めて認識した。

当然だが発火点と引火点の違いは理解している。そして「火に油を注ぐ」の意味も分かる。

 

ガソリンは、油。サラダ油も、油。

火、つきそうじゃん。

 

しかしよく考えたらそんなはずはない。サラダ油なんて料理でいつも使われているし、平然と火に晒されている。もしサラダ油が簡単に引火しようものなら毎日がボヤ騒ぎだ。だがそんなことはただの一度も起こったことがない。

ゆえに「サラダ油に火はつかない」と判断できる。

 ここに科学的知見に基づいた根拠などない。あるのは日常的経験に基づいた帰納的な着地だ。科学的見地から得られる事実を「知識」と呼ぶならば、日常生活から得られるそれは「知恵」と呼ぶのが適切だろう。「サラダ油に火はつかない」という発想はその意味で「知恵」なのである。

 

つまりサラダ油で火事になってしまうという誤解は「知恵不足」が原因である。もちろん引火しないのは科学的な根拠があるのだから「知識不足」であることも事実だが、そこはさして重要ではない。私たち全員が化学に、広く言えば学問に精通しているわけではないからだ。「知識」を持っていないのはある意味当然のことで、それを認めた上で物事を正しく理解するためには「知恵」が重要である。

 

しかしここで厄介なのが、「知恵」は「知識」よりも獲得が困難であるという点だ。

 

考えてみればこれは至極当然のことだ。「知識」の獲得に必要な科学的知見、少し範囲を広げて学問領域における情報、としても良いだろう。私たちがこれらの情報を取得する際には「学び、吸収する」ことを前提として立ち回っている。つまり「知識」の獲得までが一連の学びであり、意識無意識によらず私たちは比較的自然に「知識」を獲得しているのだ。一方「知恵」の獲得はそう簡単ではない。「知恵」根源たる情報は日常に転がっており、私たちはそれらを日々取得すれどもそこから学ぼうとする意識がないからだ。

 

参考になるかはわからないが「知恵」の獲得例として”ダイゴ”を挙げようと思う。最近の話をするつもりは全くない。

恥を晒すようだが実は私、メンタリストのDaiGoとシンガーソングライターのDAIGOを別人物として認識していなかった。説明が難しいのだが、同一人物と勘違いしていたわけでもない。両者の顔もちゃんと思い浮かぶ。

 

総理大臣の孫とか、松丸亮吾の兄とか、ノブとコンビ組んでるとか、メンタリストとか、ヴァンガードのCMやってるとか。

 

これら”ダイゴ”に関わる情報は複数持っている。DAIGOとDaiGoを区別できる人はこれらの情報という点を正しく整理分類し、線で結ぶことができている。一方で同一人物を勘違いした人は分類をせずに点を全て結んでしまっている。そして当の私はというと、これら複数の点を何もせず放置していたのである。

 

「知識」及び「知恵」の獲得とは、情報という複数の点を認知するだけでなく、それらを線で結び関連付け、全体像を把握することである。

つまり「DAIGOとDaiGoは別人物」は「知恵」であり、「DAIGOとDaiGoは同一人物」も(誤りではあるが)「知恵」である。そして点を点として放置するのは「知恵」にすら至らない「低次元の知」と言える。

 

ここでサラダ油に話を戻そう。

「サラダ油に火はつかない」を「知恵」とするならば、その根拠たる情報の最たるものは「火元にあるはずなのに火事になったことはない」であろう。

 サラダ油に関しては「低次元の知」で止まっていた人も少なくないと思われる。が、問題はその先である。「サラダ油(以下略)」という事実を初めて知った時、これを「知恵」と捉えるか一つの情報と捉えるかだ。

一見するとただの事実を述べただけの情報、すなわち点にすぎないのだが、これをただの点と捉えてしまうと「じゃあ灯油に火はつくのか」という問題を正しく評価できない。それどころか灯油すら俎上に乗り得ないのである。「サラダ油(以下略)」を情報としてと同時に「知恵」として取り入れることができれば、それは「知恵」の獲得過程を擬似的に経験することを意味する。さらに灯油やその他の油、身の回りに引火し得るものはないかなどと派生的に思考を巡らせることで新たな「知識・知恵」の獲得につながる。この連鎖的な「知識・知恵」の獲得こそが「高次元の知」の形成と言えるだろう。

 

雑にまとめるとこうだ。私たちは日々の生活の中で新しい情報を取得する。しかしそれを単に取り入れるのではなく、自身の持つ情報や「知識」、「知恵」と組み合わせることで新しい「知識・知恵」を獲得できる。この「高次元の知」こそが重要だ。

点と点を線でつなぐという行為は学習場面においてはよく意識されることであるが、日常において実践されることがあまりない。知の高度化のために日常場面での意識を変えることが必要である。

 

 

 

久々に真剣に言語化をした気がする。結論自体はありきたりだけど、こういうことはきちんと認識・再確認をするのも大切なんだよね。ほどよいオチも思いつかないので、今回はこの辺で。