Side A

 
窓から差し込む光に誘われ、僕は静かに目を覚ました。 
視界に入っているのは真っ白な壁、いや、天井か。ゆっくりと体を起こす。少し頭が痛い。
 
ここはどこだろうか。
 
昨日のことを思い出そうとしても、頭痛がひどくなるばかり。考えてはならないと、脳が警告しているのかもしれない。潔く、諦める。 
周りを見渡してみる。白を基調とした広い部屋。誰もいない。清潔なシーツに包まれた、簡素なベッド。右手奥には、スライド式の扉。左には窓。カーテンの隙間から、少しだけ朝日が覗き込む。棚の上には一輪の花。名前は知らない。
 
そして、枕元に置いてある、一冊のノート––––
 
 
表紙には何も書かれていない。ページをめくる。びっしりと、とまでは言わないが、手書きの文字でページが埋まっていた。文字に見覚えは、ない。
 
––––日記?
 
日付がきちんと添えられながら、丁寧に綴られている。それも毎日、きちんと。
 誰が書いたかは分からない。他にすることもないのでのんびりと読み進めることにした。
 
 
 
 
  
突然、扉が開いた。
長身の、白衣をまとった男が入ってきた。
 
誰だかは知らない。だがどういう人かは十分予想できた。
 
「うん、顔色も悪くなさそうだし、ひとまず大丈夫そうだね」
 
男は自分を医者だと言った。果たしてここは、病室だった。
 
「さて、君はなぜここにいるのか、心当たりはあるかい?
 
 
 
ここから先のことは、あまり思い出したくない。それくらい、僕は大きな衝撃を与えられていた。
 
 
 
 
「まぁ、そんなに落ち込まなくても、きっとすぐにもと通りになるでしょ」
 
彼女は励ますように僕に声をかけた。
 
彼女、か。
 
僕は彼女が誰だか知らない。そしてどういう人かもよく分からない。
 
彼女は自分を、僕の友人だと言った。僕は覚えてない、思い出せない。
 
 
––––記憶喪失
 
 
知識としては知っている。よもや己の身にそれが降りかかるとは。昨日のことさえ思い出せなかったのも頷ける。
 
 
君をよく知る人と会話すれば、きっと何か思い出せるはずだよ
 
 
医者はそう言っていた。今は信じるしかない。 
彼女はただひたすら、話をしてくれた。 
僕がどういう人なのか。どこで生まれ、どこで育ち、今何をしているのか。彼女とは、どういう関係なのか。どこで、どうやって知り合ったのか。二人の思い出話。楽しかったエピソード、面白かった出来事、ときどき、悲しかったこと。とりとめもなく、語っていた。
 
 
 
思い出せなかった。
 
 
知らない世界だった。
 
 
 
夜。
 
病室で一人、物思いにふけっていた。 
明日も彼女はやってくるのだろうか。また同じように、僕の話をしてくれるのだろうか。”明日の僕”は、きちんと思い出せるのだろうか。 
例のノートに手を伸ばす。寝る前にやらなければならない。これが”今日の僕”の仕事。 
日記。今日の出来事を仔細に書き記す。日付も忘れずに、丁寧に書き込む。見覚えのない、しかし身体が覚えている文字が、書き綴られていく。 
そう、これは僕の日記。”昨日の僕”が残した、僕だけの日記。
 
 
僕はすべて知っている。何もかも、分かっている。
 
 
––––朝を迎えるたびに、僕は記憶を失う。昨日までの全ての僕がそう書き残していた。だから、今日の僕もそう書き記す。この日記は僕への手紙。明日の僕のための、僕からの遺書。
 
そこには『彼女』のことも記されていた。曰く、彼女もまた、記憶をうまく保持できない。僕は完全に失ってしまうが、彼女の場合、いろいろなものが混ざりこんでしまうらしい。
時間軸が狂い、部分的に欠落し、それを補うように全く新しいものが出来上がる。ありもしない”記憶”で補完される。
 
 
 
そう、彼女は嘘で、できている。
 
 
 
それでいいじゃないか。
 
たとえ偽りの記憶だとしても、彼女にとってそれは、紛れもない真実だ。全てを失う僕にとって、それがどれほど羨ましいことか。どれだけ望んでも手に入らないものを、彼女は確かに、持っているんだ。
 
 
 
ほしい。彼女の記憶が。彼女の全てが。
 
 
 
日記を引き出しにしまい、そのまま僕はベッドに入る。 
明日の僕もきっと記憶を失い、この日記ですべて思い出す。明日の彼女もきっと記憶を作り変え、新たな”真実”を僕に語る。 
それでいいんだ。僕たち二人はそうやって生きてきたんだ。これが僕らの、平穏な生活。壊す必要などない。
 
だからきっと、明日の僕も嘘をつく。知らないふりをして彼女の“思い出”を聞いてあげるんだ。
 
 
それでいいんだ。それでいいんだ。