Side B
窓から差し込む光に誘われ、私は静かに目を覚ます。
いつも通りの、なんの変哲もない朝。ゆっくりと体を起こす。少し頭が痛い。
ベットから降りて大きく伸びをする。ここは病室。
そう、私は入院している。何日も、何ヶ月も。ひょっとしたら何年も、かもしれない。もはやここが自分の家ではないか、と思ってしまうくらいこの生活に慣れてしまった。だって治らないのだもの。
医者が言うには、記憶に障害があるらしい。詳しいことはよくわからないし、正直なところ自覚もない。経過観察と称してずっと入院させられてるけど、いいように研究対象にされている気がしてならない。何せ現代科学では脳の仕組みは解明されていないのだから。
ノック音とともに、扉が開いた。
噂をすればなんとやら、お医者様のお出ましだ。
「おはようございます、先生。」
いつものように挨拶を交わす。今日は少し機嫌がいいかもしれない。
体温や脈を測る、簡単な健康診断。これもいつも通り。体はいたって健康だし、食事もバランスの取れたものが出されるから体調なんて崩しようがない。続いて諮問。多分こっちが本命。私の記憶に問題がないかのチェック。
部屋を移動して、今度は精密検査。横になったまま、よく分からない大きな機械の中に通される。特に異常なし、というか、詳しく調べても特筆事項が何もない。これはすなわち、私の入院生活が続くことを意味する。
別にいいんだけどね。検査さえ終えれば後は自由だから。
そろそろ「彼」が目を覚ます時間。今日は何を話そうかしら。
「まぁ、そんなに落ち込まなくても、きっとすぐにもと通りになるでしょ」
花瓶に生けられた花を替えながら、明るく彼に声をかけた。案の定、今日の彼も何もかも忘れてしまっていた。
–––記憶喪失
彼もまた、脳に障害を抱えていた。私のよりも症状がはっきりし、かつ厄介なものを。
朝起きると記憶をすべて失ってしまう。医者や看護師はおろか、自分のことさえも忘れてしまう。そしてもちろん、私のことも。
この世界は残酷だ。
毎日毎日、同じことの繰り返し。初めましてから始まって自己紹介。明日になればまた一からやり直し。
この世界は残酷だ。それでもここから逃れられない。
外の世界のことは何も知らない。ここから逃げ出せたとしても、生きる術など持っていない。
この世界は残酷だ。それゆえに今を足掻く。
現状維持の何が悪い。先を見通せる余裕なんてない。今この時を精一杯生きるだけで十分なんだ。
夜。
私は彼の病室にいた。彼はすでに眠っている。
私は引き出しから一冊のノートを取り出した。彼が毎日書き残している、備忘録を。
私はすべて知っている。何もかも、わかっている。
––––––朝を迎えるたびに、僕は記憶を失う。昨日までの全ての僕がそう書き残していた。だから、今日の僕もそう書き記す。この日記は僕への手紙。明日の僕のための、僕からの遺書。
彼はこれを、自分が残した日記だと思い込んでいる。でもそうじゃない。
これは私の手紙。彼への一方的な、想いの形。
私はペンを取り、”日記”を書き換えていく。嘘にまみれたこの記録が、彼の唯一の真実になるように。
––––––明日の僕もきっと記憶を失い、この日記ですべて思い出す。明日の彼女もきっと記憶を作り変え、新たな”真実”を僕に語る。
これでいいんだ。これが私たちの日常。私が作り上げた、二人だけの世界。
私は日記を彼の枕元にそっと置いた。
戸棚を見やる。昼に私が生けた花が月光に照らされ静かに佇んでいた。
ホオズキ。
花言葉は、偽り。