まだ知らない声

「ねぇ、何読んでるの?」
 
 
そう話しかけられたことがある。知らない女から。
  
 
駅で電車を待っていたときのこと。僕は一人で本を読んでいた。
何の変哲も無い、平凡な帰り道。僕の少し前に立っていたその女は、突然振り向き、尋ねてきた。
 
–––––小説ですよ
少々面食らいながらも、表紙を見せながら答えた。
何だこいつ、面識もないくせに。顔に出してしまったかもしれない。
 
なぜ声をかけられたのか皆目見当がつかない。自分で言うのも何だが、基本的に無口だし、愛想もそんなに良くない。機嫌によっては、近づくなというオーラすら放つこともある。
僕の読書の邪魔をしてまで、君は一体何を企んでるんだ? 
 
 
「これどんな本なの?」
 
くだらないモノローグを続ける僕をよそに、女は一方的に聞いてくる。
 
当たり障りのない返答を繰り返しながら、電車に乗り込む。
 
 
「『コンビニ人間』って読んだことある? あれ面白いよ」
 
–––––いや、ないです。結構興味あるんで読んでみたいとは思ってますけど
本は好きだし、個人的に関心があった作品だったので、妙に食いついてしまった。はしたない。
 
女も割と本読むらしく、図らずも話題が続いた。続けさせてくれた、とでも言うべきか。
 
本の話は嫌いじゃない。好きな作家やジャンルが被れば盛り上がるし、被らなければ開拓のきっかけになる。今回は圧倒的に被らなかったが、それでも雑談は続く。

 

さしたる生産性もない、しょうもない雑談が、続いていく–––––
 
  
「あれ、もう渋谷?」
 
終点だ。ここで乗り換えるから、否が応でも会話は一旦途切れる。乗車時間はものの数分。『しょうもない雑談』には程よい時間。
 
意図していたのか? 妙に勘ぐってしまった。思い返してみれば、駅では5分以上待っていたのに、話しかけられたのは電車到着の数十秒前。
 
真意は定かではないが、不思議と感心してしまった。

 

もっと言うと、その間合いの取り方に、好感を抱いた。
 
 
 
「ねぇ、名前は?」
 
そう聞いてくる彼女に、つい本名をそのまま答えてしまった。無防備だな。別にいいけど。連絡先は聞かれなかったし。
 
 
「私はね、アリカ」
 
改札を出ながら彼女は続ける。
 
いや聞いてねぇし。ってか苗字言えよ。心の中でツッコミながらそれでも一応記憶してしまう。
 
アリカ、ね……
 
口の中で反芻する。
 
数秒後、アリカなのかアカリなのか、わからなくなっていた。

 

聞き直す気力もなければ、興味もない。
 
行き先が違ったので、そのまま別れた。同じ駅を使っていたのだから、また会うのかもしれない。会わないのかも、しれない。顔をすぐ忘れてしまう人なので、気づかないかもしれない。
 
  
その日、僕は寄り道をした。
書店で『コンビニ人間』を手にしていた。
 
 
まぁ、買ってないんだけど。